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逗子・葉山の史跡を巡る

「鎌倉殿の13人」ゆかりの地 〜葉山町 鐙摺山〜

 

NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」により、登場した鎌倉幕府に仕えた有力御家人、「三浦義村」「和田義盛」「畠山重忠」などなど・・・は、観る人に親しまれ、考察される人物となりました。
前回の記事「逗子市 三浦胤義遺孤碑」では、逗子市を流れる田越川が、三浦一族の悲しい歴史の場でもあったことを記しましたが、他にもドラマで扱われた史実のいくつもの舞台が、逗子、葉山の身近な場所であったことも改めて知られるところとなりました。鎌倉から陸路でも、舟で海からでも近い現在の逗子、葉山の土地には、源頼朝もたびたび足を運んでいたようです。
今回は葉山の鐙摺についてご紹介します。

「鎌倉殿の13人」ゆかりの地 〜葉山町 鐙摺山〜

逗子と葉山の境目に位置する「鐙摺(あぶずり)」は、鐙摺港として知られるエリアです。小浜と呼ばれる小さな砂浜は釣り船やヨットの出入り口にもなっています。
ここから道沿いに少し上ると日本料理の老舗「日影茶屋」があり、その向かい側に「鐙摺山(鐙摺城跡)」への入り口があります。鐙摺山は高さは25mほどで、旗立山、軍見山とも呼ばれています。

日影茶屋駐車場脇の鐙摺山への階段

日影茶屋駐車場脇の鐙摺山への階段

山頂はさほど広くなく、すぐ下の葉山の海を望めます。

「鎌倉殿の13人」ゆかりの地 〜葉山町 鐙摺山〜
「鎌倉殿の13人」ゆかりの地 〜葉山町 鐙摺山〜

鐙摺山、旗立山、軍見山と3つの名称で呼ばれるのは、それぞれに歴史的由来があります。

鐙摺山

ここにはかつて三浦一族の大多和三郎義久の別館があり、1177年に三浦を訪れた源頼朝を案内した際に、登る道が狭く急で、頼朝の鐙(あぶみ)が摺れたことから、「鐙摺山」と名付けられたといわれています。

「鎌倉殿の13人」ゆかりの地 〜葉山町 鐙摺山〜

旗立山

1180年、平家に対し挙兵した頼朝につくため、三浦義澄率いる三浦一族の軍が小浜から西へ向かいます。しかし途中、河川の増水により間に合わず、その間に頼朝は石橋山の戦いで敗れてしまいます。酒匂川より三浦一族の軍勢は引き返しますが、現在の逗子市小坪あたりで畠山重忠の軍勢と遭遇、合戦となります(小坪合戦)。その際に、三浦義澄はこの鐙摺山に旗を立てて気勢を上げたことから「旗立山」と呼ばれています。

軍見山

1512年、三浦道寸が率いる三浦一族は、北条早雲に滅ぼされることとなります。北条との戦の折、弟、三浦道香の居城であった小坪の「住吉城」に一時逃れますが、さらに城から退却をする途中、この山から敵陣を物見したといわれ、「軍見山」と呼ばれる由来となりました。

鐙摺にはいくつもの歴史のエピソードがあります。
頂上には伊東祐親に関する説明看板があります。

「鎌倉殿の13人」ゆかりの地 〜葉山町 鐙摺山〜

伊東祐親(いとうすけちか)入道供養塚

また、山頂には葉山町の指定史跡「伊東祐親入道供養塚」もあります。

伊豆の豪族の伊東祐親は、伊豆に流されていた源頼朝の身柄を預かっていましたが、三女の八重と頼朝の子、千鶴丸を殺害し頼朝と対峙、鐙摺にて首をはねられたと伝えられています。
石を重ねた塚が残っています。

亀の前事件

源頼朝は愛妾、亀の前を、小坪飯島の御家人の館にかくまわせていました。しかしそのことが御台所の北条政子に知られ、館を追われることとなり、亀の前は鐙摺の大多和義久の屋敷にかくまわれることとなりました。そしてその後も頼朝はこの鐙摺の大多和義久の館を度々訪れていたようです。

名前の由来にもあるように、ちょっと登り道は急ですが、高さはなく頂上まで短時間で登れますので、お天気の良い日に訪れてみてはいかがでしょうか。こんな景色にも出会えます。

「鎌倉殿の13人」ゆかりの地 〜葉山町 鐙摺山〜
執筆者
chieta

chieta

「逗子・葉山WEB」編集担当。
逗子育ち、逗子の海で遊び続けてはや〇〇年。幼少期よりおてんばすぎて、現在までに縫い傷6箇所。
逗子・葉山・三浦・湘南は楽しい遊び場に事欠きません♪

よいこと、よいものをセレクションしてお届けしています。
別荘地、保養地だった頃の逗子の歴史、「逗子なぎさホテル」の記事も読んでいただけたらうれしいです♡

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