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「鎌倉殿の13人」ゆかりの地 ~逗子市 三浦胤義遺孤碑~

2022.11.10 up

秋に入ってからの鎌倉は、外国人観光客をはじめ日帰り観光地としての人出が戻り、週末はとても賑やかです。駅のプラットホームも人であふれていました。
NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」のゆかりの地をめぐる人も多く見られます。

~鎌倉殿×13人の御家人たち「ゆかりの地」めぐり~

さて、上記の「ゆかりの地めぐり」には掲載されていませんが、逗子市内にもいくつか、鎌倉時代のゆかりの地があります。
鎌倉幕府の有力御家人であった三浦一族の「三浦義村」は、大河ドラマによってより広く知られる人物となりました。
三浦一族のゆかりの地としては、義村が開いた「福寿寺」と「義村の墓跡」(共に三浦市南下浦町金田)などが挙げられていますが、実は逗子市の中心を流れる田越川沿いにも、ひっそりと三浦氏にまつわる碑が立っています。

三浦胤義遺孤碑(みうらたねよしいこのひ)
(逗子市逗子5-14-4 京浜急行逗子・葉山駅近く)

三浦胤義遺孤碑(みうらたねよしいじのひ)


三浦胤義(平九郎)は、三浦義村(平六)の弟です。承久の乱(1221年)で鎌倉幕府側の義村と反する後鳥羽上皇の朝廷側につき敗北、京都にて自害をしました。遺された胤義の子供たちがこの田越川の河原で処刑されたといわれています。1225年に北条泰時と三浦義村がこの地に訪れ、8万4千基の石塔を建てて弔ったとされていますが、その跡は今はなく、大正12年に田越川沿いに住んでいた石橋敏明氏が、子供たちを偲んで遺児鎮魂石碑を建立し、現在に至ります。




また、逗子市立図書館のいくつかの資料によると、この史実は『承久記』(承久の乱を記した公武の合戦記)が元とされていますが、鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡(あずまかがみ)』には、後に起こった戦いの際にこの子供たちの記述があるため、処刑されていないのでは…などの説もあるようです。
場所は、逗子市役所前の踏切を渡り右手の川沿いになります。




写真提供:J.Nagao