逗子・葉山WEB 逗子・葉山の情報ポータルサイト

  • ホーム
  • 特集
  • 逗子なぎさホテル・昭和の時代と共に歩んだ伝説のホテル
当時をしのぶ

逗子なぎさホテル・昭和の時代と共に歩んだ伝説のホテル

2022.9.21 up

逗子なぎさホテルとは

逗子なぎさホテルは、大正15年(1926年)†昭和64年(1989年)に逗子湾を一望する別荘地(現在の神奈川県逗子市新宿2丁目、国道134号線沿い「夢庵」「La Ohana」の場所)にありました。

大正、昭和の激動の時代と共に歩み、日本の近代史において貴重な歴史的一面をもち、また、文化史においても時代の象徴となったホテルでした。

戦前は皇族、別荘族の利用するハイカラな上流ホテルとして存在し、敗戦後はアメリカ軍の接収により、外国人とその家族の出入りする場となります。その後1950年代以降は「太陽族」と呼ばれる若者文化の聖地となる一方、皇族、財界人、文化人を始め、地元の方々に長く親しまれた由緒あるホテルでした。

時代のシンボルとして存在した逗子なぎさホテルの、在りし日の姿をたどってみます。


提供:逗子市


【出典・参考文献】
「逗子なぎさホテル物語」(知玄舎) 著:グローブシップ株式会社
こちらの著作元より許可をいただき掲載しております。
写真:©グローブシップ株式会社

昭和と共に生きた「逗子なぎさホテル」

大正15年(1926年)7月に、逗子なぎさホテルはオープンしました。この年の12月に葉山御用邸で静養されていた大正天皇が崩御され、元号が「大正」から「昭和」となりました。

そして、逗子なぎさホテルがホテルの営業を停止したのは、昭和64年(1989年)1月15日。この年は昭和天皇が崩御された年であり、元号が「昭和」から「平成」に代わった年でした。このように、逗子なぎさホテルは昭和が始まった年に誕生し、昭和が終わる年にホテルの役割を終えました。まさに“昭和と共に生きたホテル”なのです。



別荘地としての逗子・葉山

まだ汽車が走っていた大正時代の逗子駅は、駅前に乗合馬車が止まっている素朴でのんびりとしたローカル駅でした。客を乗せた馬車は真鍮のラッパを吹きならしながらゆったりと走り、道で手を上げるとどこでも止まってくれました。

駅前には他にもフォードやシボレーなどの外車によるタクシーや、人力車も客待ちをしていて、このエリアは葉山御用邸の存在をはじめ、著名人、外国人の別荘が集まる、古き良き時代の別荘地でした。

そんな逗子の街に、日本で最初の、ヨーロッパにならった本格的なリゾートホテルとして誕生したのが逗子なぎさホテルでした。



創始者は欧州仕込みの華族

逗子なぎさホテルの創始者は、鹿児島県出身の華族・岩下家一子爵です。岩下子爵は国費留学生としてスイスに渡り、ホテル経営、サービスなどホテル業の全般を学び、帰国後、さまざまなホテルの設計や運営に携わった、日本のホテル業界の先駆者です。岩下子爵は、使い勝手の良い洗練されたヒューマンスケールのリゾートホテル構想をもち、それは逗子なぎさホテルとして実現されました。


逗子なぎさホテルの前面には逗子湾と砂浜、ホテル横手には防風林の松林が広がっていました。
客室24室(洋室20室、和室4室)、ダイニングルーム(レストラン)、ビリヤード室、宴会室、展望台を備え、展望台と2階の屋根の間の時計台は、ホテルの顔となっていました。



昭和初期/逗子ローリングクラブ

昭和初期、週末には日本に駐在していた各国大使が静養のため逗子にやってくるようになり、別荘を持っていない大使は逗子なぎさホテルに駐在するようになりました。当時、鎌倉海浜ホテル、熱海ホテルとならび、逗子なぎさホテルもリゾートホテルとしてたいへん賑わうこととなります。

また、逗子なぎさホテルには「逗子ローリングクラブ」が置かれ、ホテル前の海岸に艇庫が造られました。ローリングクラブには、秩父宮、高松宮両殿下をはじめ、著名人がメンバーとして参加し、当時ヨーロッパで流行していたスカール(一人乗りボート)などを楽しみました。ホテル創立者の岩下子爵が、学生時代にボート部の選手として活躍していたこともあり、その経験からヨーロッパのローリング(ボート競技)を日本にも普及させようと考え、設立したようです。

経営者の交代

昭和4年(1929年)、ニューヨークウォール街の株価大暴落に端を発した世界的大不況により、岩下子爵は逗子なぎさホテルの経営から離れることとなりました。

第2代社長には、台湾、マレーシア、シンガポールといった「南洋」と称される地域で、手広く農園を経営していた愛久沢直哉氏が就任しました。

愛久沢氏は逗子を拠点として、葉山、三浦、横須賀などの三浦半島に観光農園を開発する構想を抱き、大規模な農園を造りました。農園には小川が流れ、鮎が上がってきていたそうです。ホテルの経営実務は、名古屋で大手レストランチェーンを経営していた「みかど」に託されました。

昭和10年(1935年)頃の文献によると、逗子なぎさホテルのリゾートホテルとしての人気は依然として衰えず、外国人に人気があったことが記されています。夏は海水浴客で賑わい、冬期はクリスマスツリーで彩られ、ジャズ音楽が流れるパーティーなども行われ、モダンでおしゃれなホテルとして注目を集めていました。

戦争の影響・アメリカ軍による接収

昭和10年代、戦争の影響が影を落とし始めます。オーナーの愛久沢社長が経営にあたっていた横須賀までの広い農園は海軍に買い上げられてしまいます。ホテルもそれまで使われていた「逗子ホテル」という名称が、このときに「逗子なぎさホテル」と改名されました。

ホテルは海軍の将校用クラブに使用されることとなり、そのクラブは「水交社」と称されました。
太平洋戦争末期になると、逗子の街全体にその影が及びました。ホテル右側の披露山には高射砲陣地が置かれ、対面する葉山の日影茶屋の上の山にある探照灯陣地は、米軍爆撃機が戦闘機に付き添われて上空を飛来するたびに、その姿を照らしていました。
不安な日々の中、逗子の街は大きな直接の戦災は免れ、ホテルの建物もそのまま残りました。

昭和20年、終戦を迎え8月30日、連合軍最高司令官・マッカーサー元帥が神奈川県厚木基地に飛来しました。そして即日、横浜のホテルニューグランド、バンドホテル、鎌倉海浜ホテルと共に、逗子なぎさホテルもアメリカ軍に接収されました。アメリカ軍の指示によりホテル内の改修が行われ、日本間の天井や壁にはペンキが塗られ、食堂はサーフルームに変えられました。看板は英字となり、敗戦後の日本国内にはみられない別天地のように、ホテルはアメリカ軍とその家族で賑わい、カラフルなビーチパラソルがガーデンを彩っていました。



終戦から3年目の昭和23年(1948年)の夏になると、逗子海岸は海水浴の人出が増え、日本人だけでも一夏で20万人にものぼりました。逗子海岸はアメリカ軍と日本人とで使用区域が定められ、海岸の中央がアメリカ軍専用、その左右が日本人と分けられたため、日本人スペースは人波で埋め尽くされました。海では珍しい海上舞台が設けられてショーや楽団による演奏会が催され、逗子なぎさホテルを中心とした逗子海岸の活況が復活しました。

日本に戻ったホテル

昭和27年(1952年)、講和条約が発効し、日本は独立を果たします。これに伴い逗子なぎさホテルも接収を解除されます。しかしその後もアメリカ海軍横須賀基地の指定ホテルに指名され、アメリカ軍専用宿舎となります。他社へ委託していたホテル経営は、愛久沢社長の家族が取り組むこととなり、スイス人のファーブル女史がホテル顧問に招致されました。女史により近代的で合理的なホテル実務の指導が行われ、後々の「お客さまから愛されるホテル」造りの基となりました。

しかしその後、ホテルの修復費用に加え、敗戦によるインフレの影響で経営が悪化、昭和29年(1954年)、東京丸の内に本社を構える大手のビル管理会社・日本ビルサービス株式会社社長の浅地庄太郎氏が社長に就任し、逗子なぎさホテルを再建することとなります。その後昭和50年代より、子息の浅地正一氏に経営が引き継がれました。

太陽族・文化人の愛用

昭和30年代に入ると、湘南を舞台とした石原慎太郎氏の小説「太陽の季節」が芥川賞を受賞、映画化されて大きな話題となります。太陽族と呼ばれる若者文化とファッションが生まれました。逗子なぎさホテルはこの小説に登場し、映画のロケ地ともなったため、逗子、葉山にはオートバイとヨットを乗りまわす太陽族があふれ、クラシックなこのホテルもそのメッカ的な存在となりました。たくさんの若者が立ち寄り、週末にはハワイアンの演奏によるダンスパーティーが開かれました。

三島由紀夫氏など作家や文化人も逗留し、また、昭和39年(1964年)の東京オリンピックでは各国選手の宿泊施設となりました。このときに逗子なぎさホテルの裏庭から逗子海岸に出る間の位置に、鎌倉から葉山に抜ける自動車用道路が新設され、この道路は「オリンピック道路」と呼ばれました。

その後、日本の高度経済成長が進むにつれて、逗子は東京圏の通勤範囲に取り込まれるようになり、別荘地から住宅地へと変貌していきました。




ホテルの名物料理

度々訪れた文化人に評判だったのは、「みかど」が委託経営をしていた時代のチーフコックが得意としていたフランス料理の「ひらめ料理」です。

また、当時の天皇陛下、皇太子殿下が葉山御用邸からたびたび逗子なぎさホテルにお立ち寄りになり、よくカレーライスを召し上がったそうです。これはマレーカレーを炒めた野菜の中にカレー粉、コンソメ、ローストした鶏を入れ、ジャガイモを擦り込んだものを入れる、手のこんだ特製カレー料理だったそうです。

閉館へ

昭和52年(1977年)には新館が造られました。建設に当たっては、歴史ある本館のイメージを壊さないよう万全の配慮がなされました。逗子なぎさホテルは伝統を大切にしながらも、時代に対応して新しさを加えて様相を変えていきました。目の前に広がる逗子湾ではマリンスポーツが盛んとなり、海岸や周囲の賑わいは衰えず、時代と共に変容する一方、昔馴染みの常連のお客様にも長く愛されたホテルでした。





昭和64年(1989年)、ロマンあふれる時代に創業され、激動の昭和の時代と共に歩んだ逗子なぎさホテルの老朽化による閉館が決まると、地元では逗子市に保存の陳情がなされ、保存の署名は5万人を超えました。しかし、老朽化が激しく防災面で大きな不安があり、また、高さ規制の中での建て直しも難しいため、惜しまれながら閉館となりました。

逗子なぎさホテルで7年間を暮らした作家の伊集院静氏は、ホテルの閉館にあたり惜別の辞を「週刊文春」に書いています。
閉館の日、浅地正一社長の計らいで、ホテルの調度品は希望する地元の人たちに配られました。
「人々がゆっくりと安らげる場所。そんなホテルがあったことを、みなさんに覚えておいてもらいたい」。そんな社長の思いが込められていたのでした。



当時のパンフレット







逗子は、ふるきよき時代の名残りをとどめています。
しかし、郷愁にかられる人たちばかりでなく
若者にもたまらない魅力を与えるまちでもあります。
夏になると澄みきった紺碧の海には、色とりどりのヨットが浮かび
鮮やかなコントラストが太陽の下で輝きます。
逗子なぎさホテルは、逗子海岸の浜辺を見下ろして建ち
三浦半島で最古の「のれん」を守り続けています。
逗子市の歴史を見守ってきた木造の建物は
大正時代につくられたもので、かつては宮殿下をはじめ
各国の大使、公使の常宿として使用されました。
今日では、逗子市の誇りとしてお客様方に親しまれています。
<逗子なぎさホテル パンフレットより>
出典:逗子なぎさホテル物語(知玄舎) グローブシップ株式会社

逗子なぎさホテル物語
グローブシップ株式会社編著、知玄舎POD書籍
ISBN 978-4907875916
価格:1,760円(税込)

湘南の本格的リゾートホテルとして、大正15(1926)年7月にオープンして以来、皇室ともゆかりの深い由緒ある名門の老舗ホテルとして、昭和期に一世を風靡した「逗子なぎさホテル」のありし日を忍び刊行された書の復刻版(ペーパーバック72ページおよび電子書籍)

ご購入はこちら

当時のイラストを素敵なアートに

激動の昭和の時代とともに歩んだ伝説のホテル、逗子「なぎさホテル」
当時のパンフレットやステッカーに使用されていたイラストを素敵なアートに

昭和の時代、逗子湾を見渡す別荘地に、わが国初の「本格的なリゾートホテル」として創業された「逗子なぎさホテル」。皇族をはじめ各国大使や財界人、芸術家など多くの人々に愛され、戦争・終戦・米軍接収という激動の時代をくぐり抜けながら、文化を育み、昭和と共に生きたホテルです。老朽化により1989年に閉館する際には、地元はもとより各界からも惜しむ声が絶えなかった「逗子なぎさホテル」で、当時パンフレットなどに使用されていたイラストを用いて、お部屋に飾れるアートに再現しました。

在りし日の「逗子なぎさホテル」をご存知の方には、懐かしさを感じていただけたら。
ホテルをご存知のない世代の方にも「逗子にそんなホテルがあったんだ」と思い描いて、素敵なアートとしてお部屋に飾っていただきたいイラストです。

<どんなイラスト?>

昭和初期の逗子海岸。まだ134号線が通る以前の、ホテルの前に広がる砂浜と青い海。
防風林としての松林と、日本の建築物としては珍しい白い壁の洋風の建物が異国情緒を感じさせます。
伊集院静氏の小説「なぎさホテル」の単行本の表紙にも使われていた、ノスタルジックで、昔の外国文学の挿絵のような素敵なイラストです。

ご購入はこちらから

■商品名:「逗子なぎさホテル」インテリアアート
■サイズ: 100×148mm(ポストカード大) 
      外枠 (外寸) 136×186mm
■背 面: スタンド・壁掛け可
■本体価格:1,200円(税込1,320円)
■イラスト著作権:©グローブシップ株式会社
■印 刷:株式会社横浜プリント
■企画・製作:逗子・葉山WEB

<注意事項>
外枠材質:紙、保護シート:PP
厚紙製フレームです。紙製の枠とPET製の透明シートのため、日差しや湿度によって変形、変色することがありますので、直射日光・ライトに当たる場所や湿度の高い場所ではご使用にならないようお願い致します。

Shop! ZUSHI-HAYAMA


下記店舗でも販売中です。